ボルドーの歴史

ぶどうの栽培がいつはじまったのか、正確にさかのぼることは難しいですが、ぶどう栽培のことを書いた記述の最古のものは紀元前2500年までさかのぼり、現在のグルジア、アルメニアが起源であったようです。

ボルドーの歴史

地中海の交易の発展に伴い、ぶどうは東から西へと世界に広がっていったのです。

紀元前6世紀以降、フェニキア人、次いでギリシャ人が、ワインとぶどうの栽培をプロヴァンス地方に広めていきました。

紀元後一世紀にはケルト人兵士から農商業に転向した一団であるビチュリゲス・ヴィスケスは、ブルディガラと呼ばれていたボルドー地方に寒さに強い新しい品種を導入しようと考えました。

それがビチュリカ(Biturica)種であり、現在のカベルネの祖先に他なりません。

1152年、ボルドーを中心としたアキテーヌ地方の公爵夫人アリエノールは、のちに英国王ヘンリー2世となるアンリ・プランタジュネと結婚しました。

それ以来、アキテーヌ地方と英国の交易がさかんになりました。

イギリス人は食料、織物および金属資源を輸出し、ボルドーワインを輸入しました。

ジロンド河口ボルドーでは、航路によるワイン輸出がさかんになり、ボルドーのぶどう畑はこのとき大きく発展したのです。

当時ワインは900リットル(ボルドーで今日使われている225リットル樽の4樽分に相当)の容量の「トノー」という樽で船積みされていました。

後にトノーは船の容積をはかる国際的な単位(トン)となりました。

この交易は、1453年にフランスが百年戦争に勝ち、アキテーヌ地方を取り戻したため、突然終わりを告げました。

16世紀後半から17世紀に入るとオランダ人との交易が盛んになりボルドーは再び繁栄の時代に入りました。

オランダ人のもたらした灌漑技術によってメドックの多くのぶどう畑が開発されると同時に、オランダは、オー・ド・ヴィを開発するなど、イギリスとはまったく異なる商習慣を始めました。

ボルドーは伝統的な赤ワインの他に、新たに蒸留用の辛口や甘口白ワインをつくりはじめたのです。

18世紀、西インド諸島のサント・ドミンゴ(ドミニカ共和国)や小アンティル諸島が、ボルドーワインの輸出拡大を支えボルドーは大繁栄しました。

1789年に起こったフランス革命によりぶどう園は一時期革命政府に没収されますが、資金力のあったボルドーの商人らの手によって分割されることなく買い戻されました。

イギリスはボルドーワインの輸出量の10%を占めていただけですが、ロンドンの上流社会でたいへんもてはやされ、より上質のワインを求める風潮がおこりました。

その同じ時期に、ワインをガラス瓶につめて、コルクで栓をすることがはじめて導入され、徐々に樽による船積みに取って代わっていったのです。

ぶどうの災害を乗り越えて・・・

ぶどうの災害

19世紀半ば、ウドンコ病というひどい病害がボルドーのぶどう畑を襲いました。

1857年に硫黄処理法が開発され、被害をくい止めることができました。

1855年パリ万博を期にメドックとソーテルヌのぶどう園の格付けが発表されると、世界マーケットでの貿易が広がり、繁栄の時期を迎えました。

1863年に発見されたぶどうの根を犯す寄生虫フィロキセラは、アメリカから導入されたぶどうの樹によってもたらされ、フランス中のほとんどすべてのぶどうに打撃を与えました。

ボルドーでも1875年~1892年の長い期間フィロキセラの被害を受けますがフィロキセラに免疫のあるアメリカの台木にフランスの樹を接ぎ木する方法で最終的には救われました。

アメリカの台木を直接輸入した結果、今度はベト病が広がったのです。

この寄生菌は、有名なボルドー液(生石灰と硫酸銅と水の混合液)の発明によっておさえることができました。

AOCが生まれた理由

ぶどうの災害によってフランスのぶどう畑は荒廃し、原産地の偽称と価格の低迷のために深刻な危機に陥りました。

自らを守るために1911年ジロンドの生産者はワインの原産地を強調する国家法の起草に参加しました。

この規制はアペラシオンの地域を限定し、ブロンド県以外でつくられたいかなるワインもボルドーワインとして販売することを禁止するものでしたが、第一次世界犬戦が起こったためにうまく適用されませんでした。

INAO設立(1935年)後の1936年になってようやくこの規制は再開されました。

原産地の概念に品質管理の概念が加わり、AOCが生まれたのです。

ボルドーワインの98%は現在、AOCです。

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